虚空糞投

クソみたいなブログ

断つことを決めた日

迷ったときは、自分にとってよりキツイ方を選ぶ。ありきたりだけど、僕の行動規範の一つだ。

 

夜中に腹が減って、インスタントラーメンを食べるかどうか迷ったとき、この規範に則り、僕は食べないことを選択する。スクワットを50回するか100回するか迷ったとき、僕は100回を選択する。あくまでも迷ったときの規範だから、迷わず食べてしまったり、迷わず50回で止めたりすることも多い。

 

迷って決断した結果の影響力が自分にのみ及ぶのであれば、「食べよっかな、どうしよっかな」などと、迷うこと自体を楽しむこともできるし、どのような決断をしたところで大きな後悔もないだろう。だが重要な決断とはほとんどの場合、自分以外の誰かのに何かしらの影響が出るものだ。

 

大学4年の8月の第1土曜日の明け方、東京で一人暮らしをしていた僕のアパートの家電話が鳴った。母親がくも膜下出血で倒れたことを知らせる警察からの連絡だった。

 

バイクに乗り、おぼろげな記憶を頼りに厚木方面に向かい、気づけば東名高速に乗っていた。制限速度をかなりオーバーしていたが、警察に捕まったら「母が危篤なんです」と言ってみようと思い、あまり気にしなかった。焦っているつもりはなかったが気がつくと速度が上がっていて、ずいぶん飛ばしたと思ったが、それでも病院に着くと11時近かった。

 

外科病棟に向かいナースセンターで名を告げると、看護師が飛び出していき、パタパタというスリッパの音とともに小走りで医師がやってきた。

 

母親の脳内の血管の写真を見せられ、現状の説明を受け、出された書類に名前と日付を記入した。要するに、手術の結果、どうなっても病院は責任を負えないという内容なのだと思った。手術室が確保され次第、手術を開始するという。

 

午後2時ごろから手術が始まり、午後7時ごろから遠くで花火の音が聞こえてきた。この日は地元の花火大会で、僕は母が倒れることがなかったとしても、花火に合わせて帰省する予定を立てたいた。8月の第1土曜日とはっきり覚えているのは、母親が倒れたからではなく、母親が花火大会の日に倒れたからだ。

 

あとから分かったことだが、母は僕が花火大会に合わせて帰ってくるからと言って、行きつけの寿司屋に予約を入れに行き、そこで知り合いに会ってスナックに移動し、カラオケを歌いながら後ろに倒れたのだった。

 

午後9時を過ぎて花火の音はしなくなったが、手術は続いていた。結局終わったのは日付が変わった午前0時過ぎだった。

 

母がとりあえず死を免れた後、僕は次々と決断を迫られることになった。

 

母は妻子のある中小企業の社長と交際していて、その男から金を借りていた。母が倒れたことを知ったその男は僕に返済を迫り、水道配管工は稼げるなどと言ってきた。男がそのようなことを言ってきたのにはある程度の根拠があり、僕は以前母に頼まれて、「母に何かあった場合は私が責任を持って返済いたします」という念書にサインしたことがあったのだった。金を返せと言ってくるこの男の申し出をどのように扱うのか決断する必要があった。

 

母は小さなブティックを経営していた。これをどうするべきか悩み、母親が師と仰いでいた別のブティックの女店主に相談した。女店主は「私が取引先に連絡しておくからなんにも心配しなくていいでね」と言ってくれた。その翌日には取引先の営業担当が店に乗り込んできて、見舞いの言葉は一切なく、買掛金の責任は誰が取るのかと詰め寄ってきた。このとき僕は鬼の形相というのを知った。店をどうするのか、また店の経営に関する負債をどうするのか決断する必要があった。

 

母は消費者金融からも金を借りていた。また地元の信用金庫や商工会議所などからも金を借りていた。すべて合わせると2000万円近くあった。

 

僕が高校まで住んでいた家は、僕の高校卒業と同時に売り払われてしまったため、地元に僕の実家はもうなかった。母は「買ったときより高く売れた」と言っていたから、少なくとも1000万円以上にはなったはずだが、それでも借金は2000万円近くあった。この借金をどうするか決断する必要があった。

 

大学4年の夏休み中だった僕は、残る後期分の授業料をどうするべきか決断する必要があった。

 

こうして書いてみると、けっこうヘビーな内容だったように思うが、結局のところ、僕がしたのは市がやっている法律相談で弁護士に相談し、母親を自己破産させる手続きをすることだった。特に迷う余地はなかった。

 

僕がそのとき決断だと思っていたことは、本当の意味での決断ではなかったのだった。

 

母がくも膜下出血で倒れ、個人としては結構な額の借金を背負わされそうになり、頼れる人もなく、多くのことを一人で決める必要があったが、ほとんどのことは迷う余地がなく、そうせざるを得ない状況だった。そんな僕が迷いに迷い、20年以上たった今も正しことだったのか判断できない本当の意味での決断を、当時一つだけした。

 

僕はオーストラリアの大学院で言語学を学ぶことを目標に、何年もかけて準備をしていた。バイトをして金を貯め、英語の勉強をし、現地で役立ちそうな資格を取った。

 

母は死ななかったが、死ななかったことで生きていく必要が生じた。障害も予想よりも軽度で、一人で生活することは可能ではあるものの、以前と同じようには働けない。

 

その母の生活を支えるため、日本で就職し、母親を恨みながら妥協して暮らしていくか。あるいは予定通り、オーストラリアに行くか。

 

決断がどのような由来でできた言葉なのか知らないが、英語の「decision 」には削る、断つ、殺すというような意味が含まれているのだそうだ。

 

母を恨みながら母のために日本で就職するほうが、自分にとってはキツイ選択だと思った。8月の時点で一切就活をしていなかった僕がまともな企業に入れるとは思えなかったが、放置していた就職に関する資料を手に取った。夏以降に志願できる企業を探したりしていると、いつの間にか自己憐憫に陥り、自分が悲劇の主人公になったような気がした。母のために自分を捨てて生きるのはある意味では楽なことではないかと思うようになった。

 

それで僕は、母を捨てることを決めた。母を捨てて、自分が生きたいように生きようと思った。生まれや親のせいにしないで、自分の努力で道を切り拓いていくことを選んだ。そのほうがずっとキツイはずだと判断した。母親もいろいろ問題のある人ではあったものの、自分のせいで僕が嫌々生きていくことを望むような人ではなかった。

 

くも膜下出血で倒れて障害が残った母親との関係を絶ち、亡き者として扱う。それは誰かのせいにせず、自分がしたいことを自分で決めることだ。僕の決断を母は支持してくれたのだろうか。

 

#「迷い」と「決断」

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